松田優作、複雑家庭に生まれ略奪婚まで

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松田優作は「太陽にほえろ!」で鮮烈デビュー。岡田プロデューサーが才能を見出し、萩原健一降板後の主役に抜擢。短い出演で圧倒的な演技力を示し、無名ながら起用。ジーパン刑事役で人気を博し、殉職シーンは伝説に。この役が彼の俳優人生の転機となった。

複雑な家庭環境

松田優作は1949年9月21日、山口県下関市に生まれました。
彼の出生は非常に複雑な事情を抱えていました。
父親は長崎出身の保護司で、母親は下関市で「松田質店」を経営する在日韓国人1世のかね子でした。

父親には長崎に妻子がおり、優作が宿ったことを知ると長崎に逃げ帰ってしまいました。
そのため、優作は母親のかね子と異父兄2人と共に、母一人の手で育てられることになりました。
異父兄の東と丈臣は、前夫との間に生まれた子どもたちでした。

母親のかね子は、前夫である松田武雄と結婚し、2人の息子をもうけましたが、松田武雄は1943年にニューギニアのハンサで戦死しました。

その後、長崎出身の保護司と関係を持ち、優作を妊娠しました。
ただし、父親は長崎に妻子がいたため、優作の誕生を知ると長崎に逃げ帰り、優作とは面識がなかったとされています。

この複雑な家庭環境は、優作の人生に大きな影響を与えました。
韓国と日本、2つのアジアの血を引く優作は、幼少期から差別や偏見にさらされ、屈辱的な思いを味わってきました。

この経験が、後の優作の強い反骨精神と個性的な演技スタイルの源泉となったと考えられています。
また、自身の出自を隠そうとする傾向も、この背景から生まれたものでした。

日本国籍の取得を希望

松田優作は、自身の出自を隠すために日本国籍の取得を強く希望しました。
彼は1973年頃、「太陽にほえろ!」出演を機に帰化申請を行いました。
その理由として、「在日韓国人であることがわかったら、みなさんが失望すると思います」と述べています。
このように、松田優作の在日としての経験は、彼の人生観や芸術性に深い影響を与え続けました。

松田優作の「太陽にほえろ!」への起用は、偶然と才能が絶妙に重なった結果でした。
この経緯をより深く掘り下げてみます。

まず、岡田晋吉プロデューサーの存在が重要でした。
岡田プロデューサーは常に新しい才能を探していました。
彼は「飛び出せ!青春」の主演俳優、村野武範から「文学座の研究生に面白い役者がいる」という情報を得て、文学座の稽古場を訪れました。
そこで彼は松田優作の演技を目にし、その才能に即座に魅了されました。

松田優作の演技力は圧倒的でした。

第35話「愛するものの叫び」でのゲスト出演では、わずかな出番にもかかわらず、強烈な印象を残しました。
彼の演技は、現場スタッフや編集者までもが「すごい役者が現れた!」と絶賛するほどのインパクトがありました。

一方で、番組の主演であった萩原健一(ショーケン)が降板を希望するという事態が起こりました。
萩原は「マカロニ刑事のイメージが強すぎる」「このまま続けると俳優生命に関わる」と考えていたようです。
この降板は番組にとって危機でしたが、同時に新たな可能性も生み出しました。

岡田プロデューサーは、松田優作の才能を高く評価していましたが、彼を起用するタイミングを探っていました。
当初は青春ドラマシリーズでの起用を考えていましたが、それには時間がかかるため、他局に引き抜かれる可能性がありました。
ショーケンの降板は、松田優作を即座に起用する絶好の機会となりました。

さらに、「太陽にほえろ!」は元々、新人刑事の成長を描く物語として構想されていました。
しかし、当初は適任の俳優が見つからず、萩原健一が起用されていました。
松田優作は、この「新人刑事の成長物語」というコンセプトに完璧にフィットする存在でした。

しかし、無名の新人を主役に起用することへの反対も強くありました。
日本テレビの上層部は、グループサウンズのスターだったショーケンの後任として、無名の研究生を起用することに難色を示しました。中には「太陽にほえろ!」の打ち切りや、音楽番組への変更を主張する声もありました。

これらの困難を乗り越え、岡田プロデューサーは松田優作の起用を決断しました。
この決断は、日本のテレビドラマ史に大きな影響を与えることとなりました。

松田優作演じる「ジーパン刑事」は、視聴者の心を掴み、「太陽にほえろ!」を長寿番組へと導く原動力となったのです。

この起用は、松田優作の俳優としてのキャリアを大きく飛躍させただけでなく、日本のテレビドラマの在り方にも影響を与えた重要な出来事だったと言えるでしょう。

松田美智子との結婚と松田美由紀との出会い

松田優作は1975年9月21日、劇団仲間であり作家の松田美智子と結婚しました。
翌年12月25日には長女が誕生し、家庭を築いていきました。

しかし、1979年に放送されたドラマ「探偵物語」で、17歳の新人女優・熊谷美由紀(後の松田美由紀)と共演したことをきっかけに、二人は急速に惹かれ合いました。
当時29歳だった優作は、美由紀の魅力に衝撃を受け、「今まで見たことが無いエキセントリックな女だ。この女から離れられない」と感じたといいます。

一方、美由紀も優作の包容力と男らしさに惹かれ、恋に落ちていきました。
しかし、優作が既婚者だったため、二人の関係は不倫となりました。

壮絶な略奪婚

1980年に優作と美由紀の不倫が発覚しましたが、当初、優作は子どもがいるため離婚はしないと宣言していました。
しかし、事態は急展開を迎えます。

美由紀は、美智子と子どものいる自宅へ乗り込み、美智子と子どもの目の前で手首を切って自殺未遂を図りました。

これは優作との結婚を迫るための行動でした。

この壮絶な出来事をきっかけに、優作は美智子との離婚を決意します。

1981年12月24日に離婚が成立し、1983年に美由紀と入籍しました。
この年、長男の龍平が誕生しています。

「ブラック・レイン」と最後の輝き

松田優作の俳優としての集大成とも言える作品が、1989年に公開された「ブラック・レイン」です。
リドリー・スコット監督による約59億円の大作で、マイケル・ダグラスと高倉健との共演、そしてアメリカ映画初の大阪ロケを実現させた意欲作でした。

優作は悪役の佐藤役を演じ、海外スターを相手に、ふてぶてしさの中にも狂気が光る演技を披露しました。
この演技は、優作の国際的な俳優としての器の大きさを示すものとなりました。

しかし、この輝かしい成功の裏で、優作は既に病魔と闘っていました。
彼は膀胱がんを患っており、医師の強い反対にもかかわらず、「ブラック・レイン」の撮影を優先しました。

優作は「この仕事は、俺が一生に一度出会えるかどうかの、デッカイ仕事なんです。だから、どうしてもやり遂げたい。たとえそれで命を落としたとしても、やらせてください」と医師に訴えたといいます。

この決断は、優作の俳優としての覚悟と情熱を示すものでした。しかし同時に、彼の命を縮めることにもなりました。

松田優作の最期

「ブラック・レイン」の撮影を終えた後、優作の病状は急速に悪化しました。
1989年11月6日午後6時45分、松田優作は東京都武蔵野市の病院で、40歳という若さで息を引き取りました。

彼の死は、日本の映画界に大きな衝撃を与えました。
松田優作は、その短い生涯の中で、日本映画界に強烈な印象を残し、多くの後進に影響を与えた俳優として記憶されています。

松田優作の人生は、複雑な出自から始まり、俳優としての輝かしい成功を経て、悲劇的な最期を迎えるまで、まさに波乱万丈でした。
彼の強烈な個性と圧倒的な演技力は、今なお多くの人々に影響を与え続けています。

松田優作は、日本映画界の伝説的存在として、永遠に記憶されることでしょう。

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